精神分析的心理療法とはー自分の心を知るということ

私たちは、自分の心のことをどのくらい知っているのでしょうか。

自分のことだから、自分が一番よく分かっているはず、しかし、なぜこんなに苦しいのか、なぜ同じようなことを繰り返してしまうのか、自分でもよく分からないということがあります。

自分の心なのに、まだまだ自分には知られていない心があるのです。もちろん、心が全部わかってしまうなんてことはありませんが、、、、、

精神分析的心理療法は、そうした自分ではなかなか知ることのできない心について、治療者との対話を通して考えていく営みです。

心に浮かぶことを話す

心理療法では、「今困っていること」だけを話すのではなく、日々の出来事、人との関係、その時々に感じたこと、ふと思い浮かんだこと、夢など、些細なことでも心に浮かぶことをできるだけ自由に話していただきます。

一見すると関係のないように思えることのあちこちに、その人の心が宿っているのです。

治療者は、語られたことを聞き、心に留めながら、その方の心に何が起きているのかに思いめぐらせます。そして、そういう治療者とのやり取りの中から、ご自分ではそれまで気づくことのなかった気持ちや、心の動きが、少しずつ見えてきたりするのです。

分からないことを、分からないまま二人で共に考え続ける時間の体験も、心理療法では大切なものです。

同じことを繰り返すことにも意味がある

「もう分かっているはずなのに、また同じことをしてしまった」そのように感じることがしばしばあります。頭で理解することと、心の深いところで感じ、分かることとは、だいぶ違うのです。

何故いつも同じようなことになってしまうのか、なぜかいつも同じところで苦しくなるのか「なぜなのだろう、どうなっているのだろう」と考え続けるのが心理療法です。そして、そんな時間の中で、これまで別々のことだと思っていた体験が不意につながったり、自分の中にあったけれども気づかなかった「思い」に出会うという発見が起こるのです。

自分の心とともに生きていく

このような作業を経て、人は自分の心に起きていることを知り、それについて考えられるようになり、自分のさまざまな気持ちを、自分のものとして、より抱えられるようになっていけるでしょう。

自分を知ることで、すぐに人生の問題がなくなるとはいえません。けれども、自分でも知らなかった自分に出会い、自分の心について考えることができるようになると、それまでとは少し違った仕方で、人と関わったり、自分の人生を選んだりすることができるようになるのではないでしょうか。

そうです、精神分析的心理療法とは、自分の心とともに生きていくことができるようになる為の営みなのだと私は思っています。

近くて遠い関係

自分を変えたい、あるいは自分の人生や生活をなんとかしたい、または、身近な人をなんとかしたい、などなどの理由でクライエントは相談においでになります。

そして長い時には何年かを費やしてオフィスに通ってこられます。

面接においでなる多くの方から「どのくらい時間がかかりますか?」「どんな風に治っていくのですか?」と先の見通しを聞きかれます。

ご自分の貴重な時間やお金をかけて通ってこられるわけですから、それは至極当然な問いでしょう。それを聞かれる度に、もっともな問いだと思いつつも、それに明確に答えることはできないなあといつも申し訳ないような思いにもなります。応えられないというのは、相手にとっては、あなたの買おうとしているものは、どんなものかわかりませんし、幾らになるかわかりませんと言われているようなものだと思うからです。

明確には言えない、それが心理療法というものにつきものの性質だと私は感じています。

私の考える心理療法とは人(クライエント)と人(セラピスト)とが出会って、主にコミュニケーション(言語的に、あるいは非言語的)によって関わり続けること、また、ともに過ごす、その時間や空間から、それまでも在ったのに、知らなかった一面や、気づかなかったものに触れ、そこに問いが生まれ、そこに見えていなかった別の考えや選択が生じ、それによってその人の心の中の世界が広がっていくという、ざっくりいうとそういう作業だと私は理解しています。抽象的でわからないでしょうか、、、、

そしてその作業は自分だけではできないし、日記に書くことによって自分の中を客観視するということでも難しい、何故なら一人での作業だと、同じ考えの軌道をぐるぐる回ることを繰り返すだけだったり、とかく悲観的な方向に流れやすいからです。

変化の可能性を開くには、自分ではない別の心を持った他者との対話が必要だと私は思っています。

「私には親身に話を聞いて考えてくれる家族や親友がいるし、話ができているからいい」とおっしゃるかもしれません、勿論そういう存在が大きな助けになることは確かです。しかしセラピストの役割は親友とはちょっと違います。

セラピストは、親友や家族のように「こうなって欲しい」という思入れをクライエントに対して持ちません。というか、そういう姿勢が大切だと考えています。もちろんセラピストも心のある人間なので、クライエントに対して色々な気持ちが動くことは否めません、しかしそれを自覚して、そのこと自体もクライエントの理解に使っていくのです。「私は何故この人に対して、こんなに力になりたいと思ってしまうのか」とか、、、その気持ちの動きも二人の間のコミュニケーションの性質を伝えている「何か」と考えていくというやり方です。(これはあくまで、私の考える心理療法なので、違う考えで心理療法をやっていらっしゃるセラピストもいるでしょうが、、、)

親友や家族の「思い」は力を与えてもくれますが、心を縛るものにもなりえます。思ってくれる親や親友の期待や思いに応えていきたいという「思い」に縛られて、自由に感じたり考えたりが難しくなることもあるでしょう。セラピストはそういう縛りなく、その人ができるだけその人らしく、自由に感じたり考えたりできる相手でありたいと思っています。

セラピストはクライエントの心を理解しようと、その心の近くに居ようとしますが、クライエントの現実生活では会うことはありません。これもクライエントが自由に感じたり、考えたりするのに必要なことだと思います。こういう関係だからこそ、クライエントは評価を恐れて語れなかったこと、嫌われることを避けたくて、なかったことにしていた事柄に触れていけるのです。セラピストは「近くて遠い存在」という不思議な他者として存在感を持っていきます。

そんなセラピストとの距離感にクライエントは時に不満や寂しさを感じて「どうせ先生は仕事でやっているんでしょ?」という言葉を投げかけてきたりします。そう仕方ないのです、そう感じさせるようなスタンスをとることが、セラピストにとって大切なことでもあるからです。

ひと段落、、、。

コラムをまたまたギリギリになって書き始めるということになってしまい、、、はて最近何があったかしらと考えていますが、、、

そう、最近のこととしては、ある日気づいてみると、猫の眼が赤くなり、目頭が爛れており、次の朝には片目が開かなくなるという事態が勃発しました。

さあ大変!猫を飼っている方ならわかるかと思いますが、動物病院に行ったらいいのはわかっているのですが、これが大騒ぎです。捕まえて、巨大な洗濯ネットに入れるのですが、相手も必死に抵抗を試みるので、引っ掛かれることも度々です。それでやっと洗濯ネットからキャリーバックに入れて連れ出すのですが、今度は鳴き声が、、、すごい!唸り声のような、怨念のこもったような、粘りのあるような声で、いかに自分は酷い目に遭わされているかを周りに訴えるかのような鳴き方を続けるのです。

周りに訴えるなんて意図は猫にはなく、ただ怖かったり不快だったりしているだけだと頭では理解しつつも、私はまるで自分が動物虐待をしているかのような気持ちになり、、、。すると唸り声で人が振り返る度に、人々の視線が自分を責めているように見えてきて、身の置きどころがない気持ち陥ります。

私の心の中にある居心地の悪さが、外の人の視線に映し出されて、責められているように感じるというメカニズムで、これが現実ではないということもわかっています。しかし理不尽な私の心は「いや、猫の目がですね、、、」と通りすがりの人々一人一人に言い訳をして回りたい衝動を掻き立てるのです。

猫の目が開かなくなっているのを見た時にまず私の脳裏に浮かんだのは、この通院の大変さでした。私は早々に動物病院に電話して、いかに連れて行くのが大変な猫かということを丁寧に切々と訴え、写メを持って私だけで受診してもいいと言ってもらえました。

ああよかった!とホッとはしたものの、今度は毎日の点眼で格闘中です。猫にとっては、後ろから抑えられては、訳がわからない冷たい液体を目に落とされるのですから、迷惑千万なことでしょう。でもその甲斐あって今は大分治ってきています。ひと段落、、、、。

植物の植え替え

コラム、毎月書こうと思っていたのに、4月は終わり、このままでは5月も過ぎてしまうと思って、慌てて書いています。別に義務ではないのですが、、、、。

4月はオフィスの植木の植え替えをしました。もそもそ開業の時の13年前に、20センチくらいの鉢植えだったのが、今や増えに増えて、挿し木をし、それも増える、という状態で、、、。手が回らず、水だけやっていたら、元気ではあるのですが、根がいっぱいになり、鉢の下から出てくるし、鉢の上からも出てくるしで、段々目に余るようになり、そのままにはしておけず、植え替えを決心しました。

まずは強力に根が絡みついていて、鉢から簡単に抜けず、奮闘していたら、オフィスは土だらけになる始末。さらには、あまりに大きな鉢にすると、水やりの度に鉢を持ち上げのが大変になるので、根を切ったり、葉っぱを切ったりして、整理をして、ちょっとだけ大きな鉢に植え替えたのです。

オフィスに訪れる人々は、鉢植えのこともかなり良く見ていて、水やりが少ないと「先生水あげてないでしょ?」と言われたり「先生は植木の手入れは上手でよく育っているのに、、、」と暗に不満を言われている?と思うこともあります。オフィスの物は、ただの物ではなく、私の一部でもあるのでしょう、鉢からはみ出した根や、野放図に延びた葉まで、、、

さて、植え替えてから、3週間経ちました。根まで切ったからどうなるかと思いきや、次々と新しい芽が出てきているではありませんか。その勢いは植え替える前を凌ぐ勢いです。植物の生命力あっぱれ!そしてやはり「手入れ」の大切さを再認識、これからはもっとまめに手入れをしましょうと自分に言い聞かせています。

3月と桜

今年も桜が咲く時を迎えました。オフィスから見える青山小学校の体育館には紅白幕が張られ、卒業式が行われたようです、そして次の月には入学式が行われるのでしょう。

春は何かと変化のある時、仲間と別れる寂しさ、そしてそのあとには、新しい人々と出会う、不安と期待、今の時期はそんな風に描写されてますね。

満開の桜と、記念撮影、また新しい若干大きめの制服などなど、子供の頃から春は新しいことが始まる、希望の季節みたい聞かされてきたし、そんな気持ちで過ごしてきたような気がします。

大人になって聞いてみると、意外に春が嫌いな人は多いようです。

新しい旅立ちの季節のはずなのに、自分にとってはなんら変わらない相変わらずの春で、自分だけ取り残されている、そんな風に自分のことを感じてしまうからでしょうか、、、、

桜が一気に咲いて、すぐに散る姿を見ると、いっそう無情や儚さを感じて、人生が寂しく、虚しく感じるからなのでしょうか?

今年も、オフィスの近くの、墓地に多くの桜が少しづつ咲き始めています。

普通って何?

人ってあまり意識しないで、「普通は」とか「一般的に」とか「みんな」とかいう言葉を使って話していますよね。そういう言葉で話すことによって、自分の話していることが何か正しいような、他の人と考えを共有しているような、裏付けがあるような安心感が持てるからでしょうか?

昔、心理療法のトレーニングを受けていたときに「みんなそうですよね」というようなことうっかり言うと、すかさず指導者から「みんなって誰?」って突っ込まれました。そして「世の中にはバラバラな別々な人間がいるだけなんだよ」って幾度となく訂正されたことを思い出します。それを言われ続けているうちに、それ自体が心理療法的な効果を発揮し、どことなく自分が物事を前よりは自由に見れるようになっていった実感があります。

そうです、心理療法はこのように「固まっている考えや認識」を解きほぐす、組み立て直す作業でもあります。

相談に来る方の中には「人の輪に入れない」と話される方もいます。それは生活している中で、いろいろなことを共有して仲良くしている人の集団から、疎外されていると悩まれている方の体験です。

でも「その輪」の中の人は、私の指導者的に言えば「一人一人バラバラで、考えも感じ方も違う」と考えると、現実にはそんな「輪」は存在していないし、「輪」という考えで遠ざけられていた人々の中に、自分と同じ感じ方の人がいるかもしれないと希望を持つことに繋がっていくと思いませんか?

人を塊にして、同質にする見方って、安心という錯覚も生み出すけど、自分を縛ったり、苦しめたりすることにも繋がっているようです。

年賀状

今年は年賀状が何時もの年より少なかったなって感じです。郵便代金の値上げの影響でしょうか?また、いただいた何人かからは「年賀状収め」の連絡もあり、来年はもっと減るのでしょう。

年の瀬の忙しい時に年賀状書きは大変で、その時はやめてしまいたいと思ったりもするのですが、なかなかその決断もつかず・・・・・・

年賀状をもらうと何だか嬉しいのは私だけでしょうか?普段会うこともないし、これからも会わないかもしれない人、メールのアドレスもわからない人、年賀状で年に一回思い出すような人、そういう人は、自分の過去の時間とともに通り過ぎ、そのまま思い出す必要もないのかもしれません。でも、どこかそれでは寂しいような。その懐かしい名前とともに、そのころの空気感、その時間を共にした人とともに、自分も思い出す。なんだか切ないような瞬間を年に1回運んでくる、それが年賀状だよなーと今年はしみじみと感慨にふけりました。そして、今年の暮れもきっと年賀状を書いるのだろうな・・・・私は。

秋の散歩

青山一丁目から外苑前まで歩いてみました。

丁度外苑の銀杏並木が見頃です。

人は季節を感じたいのでしょうね、、、沢山の人が銀杏を見に集っていました。

青い空に、黄色の銀杏、春の桜とは違う、なんとも言えない趣、あの懐かしい匂いも、、

コンビニの唐揚げも半額になっていて、頬張りながら銀杏を見ている家族など、色々な人の時間を見ながら歩きました。

「何者かになる」ということ

 子供を産むと女性は「お母さん」になります。昨日までの自分に「母親」という役割と周囲の見方が加わります。そうすると「子供を愛し、思いやり、どんな時でも守り、揺るがない頼りある母性ある存在」であることを「暗に」期待されているようなプレッシャーを感じるようです。昨日までと今日の自分はほとんど変わらないのに、、、

 一緒にするなと言われてしまうかもしれませんが、「心理士」だって別に資格を取ったから、中身がすぐに心理士にはなれません。

 心理士が「心の専門家」と呼ばれていたり、心理士自身がそう言っていると、ものすごい違和感を覚えていた時期がありました。「心は一人一人違うのに、専門家ってどういうことだ?と、専門家なんかになれるわけがない」と、、、。しかし何年か、クライエントとの間で色々な体験をしているうちに、確かに人は違えど、心にはあるパターン化した動きがあるということ、とはいえ、それぞれ人の心を見守るには、自分の好み、価値観を棚上げした、忍耐と関心が必要だと言うことを痛感するようになってきました。これが心の専門家ということなのでしょうか?それはともかく、年月と体験を通して、段々心理士になっていくんでしょうね。そして、それには終わりも完成もない、焦ってもしょうがない、、、

猫の鳴き声から

 猫の鳴き声って色々ですよね「うわおーん」と不満気に鳴く時は3番目の「おー」と引っ張るような音が、お腹の底から湧き出ているような凄みがあり「ああ、ああ、ご不満なんだわ」とすぐにわかります。また「にゃーにゃー」とまるで赤ちゃんのようなに、いやいや赤ちゃんの声に甘さを足したような甘い声で鳴かれると、糖尿病を警戒して食べさせないでいた、大好きなスープをホイホイとあげてしまい「しまった!」と反省し、人をこうやって動かす猫とは実に侮れない生き物だと思ったりましす。語調や声音って言葉以上に真実を伝えますね

 「私が悪いんです。すみません」と謝られても「なんだか責められてる?」って感じることってありませんか、それは相手の微妙な語調から「(どうせ)私が悪い(と思っているんでしょ)すみません(でしたね)」って聞こえてくるからですね、これを言葉通りに受け取って、「謝っている」と捉えて反応すると、相手がますます逆上!何てこともありますね、コミュニケーションって難しい。