近くて遠い関係

自分を変えたい、あるいは自分の人生や生活をなんとかしたい、または、身近な人をなんとかしたい、などなどの理由でクライエントは相談においでになります。

そして長い時には何年かを費やしてオフィスに通ってこられます。

面接においでなる多くの方から「どのくらい時間がかかりますか?」「どんな風に治っていくのですか?」と先の見通しを聞きかれます。

ご自分の貴重な時間やお金をかけて通ってこられるわけですから、それは至極当然な問いでしょう。それを聞かれる度に、もっともな問いだと思いつつも、それに明確に答えることはできないなあといつも申し訳ないような思いにもなります。応えられないというのは、相手にとっては、あなたの買おうとしているものは、どんなものかわかりませんし、幾らになるかわかりませんと言われているようなものだと思うからです。

明確には言えない、それが心理療法というものにつきものの性質だと私は感じています。

私の考える心理療法とは人(クライエント)と人(セラピスト)とが出会って、主にコミュニケーション(言語的に、あるいは非言語的)によって関わり続けること、また、ともに過ごす、その時間や空間から、それまでも在ったのに、知らなかった一面や、気づかなかったものに触れ、そこに問いが生まれ、そこに見えていなかった別の考えや選択が生じ、それによってその人の心の中の世界が広がっていくという、ざっくりいうとそういう作業だと私は理解しています。抽象的でわからないでしょうか、、、、

そしてその作業は自分だけではできないし、日記に書くことによって自分の中を客観視するということでも難しい、何故なら一人での作業だと、同じ考えの軌道をぐるぐる回ることを繰り返すだけだったり、とかく悲観的な方向に流れやすいからです。

変化の可能性を開くには、自分ではない別の心を持った他者との対話が必要だと私は思っています。

「私には親身に話を聞いて考えてくれる家族や親友がいるし、話ができているからいい」とおっしゃるかもしれません、勿論そういう存在が大きな助けになることは確かです。しかしセラピストの役割は親友とはちょっと違います。

セラピストは、親友や家族のように「こうなって欲しい」という思入れをクライエントに対して持ちません。というか、そういう姿勢が大切だと考えています。もちろんセラピストも心のある人間なので、クライエントに対して色々な気持ちが動くことは否めません、しかしそれを自覚して、そのこと自体もクライエントの理解に使っていくのです。「私は何故この人に対して、こんなに力になりたいと思ってしまうのか」とか、、、その気持ちの動きも二人の間のコミュニケーションの性質を伝えている「何か」と考えていくというやり方です。(これはあくまで、私の考える心理療法なので、違う考えで心理療法をやっていらっしゃるセラピストもいるでしょうが、、、)

親友や家族の「思い」は力を与えてもくれますが、心を縛るものにもなりえます。思ってくれる親や親友の期待や思いに応えていきたいという「思い」に縛られて、自由に感じたり考えたりが難しくなることもあるでしょう。セラピストはそういう縛りなく、その人ができるだけその人らしく、自由に感じたり考えたりできる相手でありたいと思っています。

セラピストはクライエントの心を理解しようと、その心の近くに居ようとしますが、クライエントの現実生活では会うことはありません。これもクライエントが自由に感じたり、考えたりするのに必要なことだと思います。こういう関係だからこそ、クライエントは評価を恐れて語れなかったこと、嫌われることを避けたくて、なかったことにしていた事柄に触れていけるのです。セラピストは「近くて遠い存在」という不思議な他者として存在感を持っていきます。

そんなセラピストとの距離感にクライエントは時に不満や寂しさを感じて「どうせ先生は仕事でやっているんでしょ?」という言葉を投げかけてきたりします。そう仕方ないのです、そう感じさせるようなスタンスをとることが、セラピストにとって大切なことでもあるからです。